赤羽今昔  
 日本初の国産飛行機製作所
 赤羽に日本初の国産飛行機製作工場があったことは、私が少年時代からずっと持ち続けて来た、郷土の最も誇り高い思い出の一つ
である。
 大正5年5月、突如として出現したいわゆる赤羽飛行場製作所がそれである。
創立者は耳鼻咽喉科の泰斗であり、医学博士の岸一太氏であった。当時、氏は今の中央区築地明石町の一開業医であり、その医師
としての手腕は高く評価されていた。
 その岸博士が国産飛行場製作の大悲願実現に青春の血を燃焼して、開業医を投げ打って敢然、同士を鳩合して未踏の大事業に踏
み切ったのであった。それゆえに、この製作所は別名、岸飛行機製作所と言われた。
 敷地は三万坪くらい。東は荒川岸近くの現在の大同特殊鋼株式会社と都立北清掃工場から西は神谷中学、神谷小学校、神谷第二
小学校、成立商業高校あたりにまでのびた、すこぶる広大な敷地であったが、今では正確に知る人もなく、ましてや資料が全くなくなっ
てしまったのは残念なことである。
 北清掃工場付近には飛行機製作工場があり、ここに機械の設計、組み立て、修理部、発動機の設計、風洞実験室、電気溶解炉、乾
燥室など最新の設備と、人材の頭脳を網羅し、数機を入れる大格納庫もあった。
 今の成立商業高校の付近には自動車製造工場があり、自動車の設計、製造、修理、組み立ての各部があって、これに自動車練習
場が付属していた。この建物は二階建てで中央にユニークな塔があり、異国調あふれる特異な様式であっていまだに忘れられない
あかばね漫歩1983年9月号より石川倫氏著
 荒川水練場
  昭和初期から戦後の少しの間(1927~47)荒川大橋付近に赤羽水泳教習場があった。対岸にも川口水練場があって、援護舟の付
き添いで往復できると1級の免状がもらえた。水遊びに疲れたあとの3銭のカキ氷の味が忘れられない。
川の汚染がひどくなり、衛生上からも廃止された。初代の荒川大橋は昭和3年に完成、当時も”新大橋”と呼ばれて東京一の長さを誇り
赤羽、川口、鳩ヶ谷間にバスも開通した。全区間七銭であった。